「才能」という言葉に疲れたら「灼熱の卓球娘」を読もう!
知らない人は覚えてね
おっもしれぇなぁ・・・。
どうしよう。全く卓球娘の熱が冷めない。
アニメは最終回したのに。秋アニメなのに。
「卓球娘面白い!熱い!2期!」といった
熱情に身を委ねた感想はTwitterに垂れ流してあるが、ここでは普段とは違う視点から
原作「灼熱の卓球娘」という作品の魅力について語りたい。
※卓球娘原作4巻までのネタバレを含みます。アニメのみ視聴(2巻分まで)の方はご留意願います。
※他作品のネタバレも含みます。合わせてご留意下さい。
「あの」卓球漫画と何が違うんです?
卓球マンガ、卓球アニメ
これらを語る際、どうしても脳裏を過る名作がある。
そう。皆さん御存じ「ピンポン」である。
実写化もアニメ化も仮装大賞もされた超有名作品で、知っている方も多いだろう。
知らない子はきっとナウでヤングな10代だ。
大変僭越ながら、ピンポンの内容を超超超短くまとめるならば、
「2人の天才を中心に描く超絶面白い卓球青春ドラマ」で相違ないだろう。
卓球を通じて挫折と自身の才能に悩みながらも、
努力し強敵に挑む主人公ペコ(敬称略)やスマイルといった魅力的なキャラクター達に
憧れや感動を抱いたのは筆者だけではない筈だ。
・・・さて、ピンポンを引き合いに出したのは
決してどちらが優れているか?という野暮な話の為では無い。
そんなのはTVで「ラーメンとカレーどっちが美味しい?」と議論するようなものだ。
バッキャロー!どっちもどちゃくそ旨いんじゃ!
本題に入ろう。
2つの作品は題材こそ同じ卓球だが、重視している部分が全く違うのである。
更に言えば、
ピンポンにはあって卓球娘には無い単語があるのだ。
それは何か。男?いや、そうじゃない。
答え~~~~はっ・・・
答えは『才能』である。
どうあがいても、絶望
不思議な事に、卓球娘の世界の登場人物は
『才能』という単語に悩む描写がない。
というか、先に書いた通り「才能」という単語が文章中に存在ないのだ。
まあ「素質」「適正」といった単語は何度も出てくるが。
作品内には、新たに表れたライバルに嫉妬し涙を流すシーンがある。
親友が「正直、(貴方には)前陣速攻の適正があるとは思えなかった」という
心の声が聞こえる描写もあったりする。
そもそも主人公の転校生は他県ではベスト4の実績を持つ。
そう。
スポーツ漫画の例に漏れず、卓球娘の世界にも才能だったり天才の類は存在する。
ただ、この作品には「自分の非才さを呪う者がいない 」のである。
せやな。
どういうことか?
それはピンポンと何か違うのか?
いや、これがまた全然違うのだ。
これはピンポンのとあるシーン。
他人の1000倍努力した凡人の選手「アクマ」が
天性の才能を持った「スマイル」に惨敗した際の場面である。
なんて酷いことを。だが、この世の真実でもある。
人間は決して平等などではない。同じスタートラインな訳がない。
アクマはある意味、努力した分だけ自身の才能の無さを証明してしまったのである。
どんだけ練習しようと負けは負け。
だってアクマには才能が無いのだから。…ごめんなアクマ。
転じてこちらは灼熱の卓球娘のとあるシーン。
2年生の前陣速攻の選手「ハナビ」が
同じく速攻型の選手、しかも1年生の「ねむり」に敗北。挙句の果てに以下の一言。
ひっでえ。下手したら選手生命を折りかねないだろ。ゆ"る"さ"ん"
ハナビの名誉の為に補足すると、彼女は決して神頼みをするような人間ではない。
あくまで御守は親友のくれた「宝物」であり、
彼女が強くなったのは本人の努力の賜物。運気アップのアクセサリーとは訳が違う。 …めっちゃいい子なんです。
故に先ほどのシーン。あまりにも屈辱的である。
ねむりの誤った暴言に対し「違う」と証明した所でチームには何の意味も成さないからだ。
本当に神頼みしてようがしまいが知ったこっちゃない。
だって結果的にハナビは負けているのだから。
れれれ冷静になろう。
つまり、今の2つははどちらも勝者が敗者を蹴落とす瞬間であるが、
スマイルは「才能」という現実を突きつけており、
ねむりは「敗北」という現実を突きつけているのである。
・・・これが灼熱の卓球娘という作品だ。
あえて別の言い方をするならば、この漫画は
「才能という単語を用いずに無垢な女子を絶望させるのが上手い漫画」であると言える。
朝野先生ごめんなさい(土下座)
徹底的に「才能」を省く漫画、卓球娘
改めて読み返してみると、なんてこった。
卓球娘の世界では「才能」というステータスがまともに機能していないじゃないか。
いや、それどころか「才能」とか言い訳言ってられん!と思える描写が散見される。
例えば、主人公達が所属する卓球部は「校内ランキング」でレギュラーを決めている。
そう。ここは完全に実力の世界だ。
才能や年齢、先輩からの評価が有ろうが無かろうが関係ない。
この卓球部に入ったら最後。勝った者が正義である。
「甘い気持ちなら許さない」という歌詞に偽りはないのだ。
そもそも卓球娘は1ページ目から
「中学女子卓球界の常勝校キャプテンが無名校に完封(スコンク)されて号泣」という
これでもかという位の弱肉強食っぷりが作者の本性により描かれて始まる。
言い逃れなど出来ない。敗者は敗者。
勝った者が正義のスポーツマンの世界だ。厳しい現実である。
「おいおいちょっと待て!無名の選手がいきなり勝利!?それこそ才能じゃん!」
という意見もある筈だ。
その通りだと思う。才能があるからこそ成立した下剋上だろう。
たが、それはあくまでも「勝利に付随する他者の評価」の話で、
こと卓球娘の世界においてはその評価を重要視していない。
なんか無名の超強い奴がいて、そいつがただ黙々と強豪校をぶっ倒して
世はまさに!大卓球時代! …というだけだ。
事実、誰もその下剋上少女を天才だと褒め称える描写は存在しない(今の所はだが)。
何よりも、キャプテンだ。
わんわん泣いている彼女の脳裏に
「自分にもっと才能が有れば!」などという類の小難しい回想は流れただろうか?
勿論そんな描写も余裕もなさそうである。
推測するしかできないが、年齢や状況を考えてもやはりキャプテンは
「完敗した挙句馬鹿にされた」から号泣しているのだと筆者は思う。
負けて泣いてしまう。馬鹿にされて悔しかった。
理屈は単純だが、故に中学生の彼女に現実は重くのしかかったハズである。
この作品は決して才能を否定しているのではない。
「勝者と敗者がいる」という現実を
才能という要素で色付けしない作品なのだ。
大事な試合で負けた後、貴方ならこんな事を言えるか?
…筆者ならきっと言い訳を考えてしまう。
「才能」という言葉に呪われるな!
卓球娘という作品に触れて学んだ事がある。
我々の現実世界における「才能」なんて単語は
あまりにも無意味でなのである。
これはあくまで筆者の意見だ。
確かに「才能」という言葉には甘美な響きがある。
他人から「君は天才だ!」と言われて浮かれない人間など多くは無いだろう。
そう、それこそ初期のあがりちゃんのように。
だがそれはそれ。
才能とはどこまで行っても「評価」であり「全国への切符」にはなり得ない。
そこを頭ではなく心で感じたからこそ、
上矢あがりというキャラクターは成長できたのではないだろうか。
もしかすると、
「自分には才能が無い」と思っている読者もいるかもしれない。
それは結果が出てないだけの自分を咎める言葉にはなっていないだろうか?
そして自分に「才能が無い」などと決めつけてしまって本当に良いのか?
卓球漫画ではないが、逆境無類カイジとい名作にはこんな台詞がある。
時に人は「才能」という単語を使って
敗北を煙に巻いているだけなのかもしれない。
負けたことはしょうがない。結果を出せない事も往々にしてある。
だがその失敗を「才能がないから」という言い訳にして何の意味があるだろう?
挙句の果てに自分であてがった無能の刻印で首を絞めているだけになっていないか?
だとしたら、こんなにも無駄なことはない。
もし、もしもだ。
自分に才能があるとかないとか悩んでいるのだったら、
まずは「灼熱の卓球娘」を読んでみて欲しい!
そこには才能という言い訳をせず、我武者羅に卓球で全国を目指す素敵な中学生が輝いている!
落ち込むことがあったっていい、泣いたっていい。
ただきっと、挑み続ければいつか必ず勝てる!次は勝とうね!
大丈夫!貴方は必ず「好きだ をカタチ」に出来る!
卓球で全国を目指す我らが旋風こよりちゃんも言っていたじゃないか!
「卓球が 大好きだから!」
れれれ冷静になろう。
とにかく灼熱の卓球娘には本当に沢山の面白い要素が詰まっている。
このコラムに書いた事などその1%にも満たない。いや本当に。
是非とも手に取って読んで見て欲しい。アニメもとってもおススメだ。
< 電子書籍版もおススメ。
人生は、才能だけじゃない。
そしてこの作品には人生が詰まっている。
P.S ピンポンも死ぬほど面白いし人生学べるから絶対読みなさい